特別展 1F

2005年12月23日(金)〜2006年02月05日(日)

大河ドラマ「功名が辻」特別展

山内一豊とその妻

山内一豊とその妻

 

「山内一豊肖像画」

「山内一豊肖像画」

 

尾張国(現・愛知県)に父・盛豊の第四子として生まれ、槍働き一筋で、主を代えながらも戦国時代を生き抜き、大功を成した山内一豊(1545-1605)。 父の戦死により若くして放浪の身となった一豊は、豊臣秀吉にその槍使いを認められ、秀吉の家臣として織田信長の浅井・朝倉攻めに参加。朝倉の将・三段崎勘右衛門を討ち取るなど大きな働きを見せました。このころ生涯の伴侶である夫人(見性院)と出会ったといわれています。 信長没後は、豊臣秀吉の天下統一への道とともに、時代の流れに乗るように出世を重ね、やがて、徳川家康に関ヶ原の合戦での働きを評価され、掛川城主から土佐藩主となり土佐藩の礎を築きました。一豊がここまでの地位を築くことができたのも夫人の存在が大きいと言われており、「内助の功」として数々の美談を残しています。

本展覧会では、平成18年のNHK大河ドラマ「功名が辻」と連動して、卓越した時代感覚と器量で戦国の猛者たちと渡り合い、土佐の国を治めた一豊や夫人の人となりを、彼らゆかりの文物により、その時代背景とともに紹介します。また、秀吉の妻・高台院(おね)や淀君(秀吉側室)をはじめとした戦国時代の女性たちに関係する歴史資料も展示し、戦国の世の女性たちの生き方を紹介するとともに、16代にわたり土佐藩主をつとめた山内家から高知県に移管された6万6千点を超える山内家伝来の名宝の中から、選りすぐりの品を展示し、近世大名の華麗で洗練された文化も紹介します。

開催概要

開催期間 2005年12月23日(金・祝)~2006年2月5日(日) 計37日間
会場 江戸東京博物館 1階 企画展示室
休館日 年末年始(12月28日~1月1日)
及び毎週月曜日
1月2日(月・祝)・1月9日(月・祝)・1月16日(月)は開館。
開館時間 午前9時30分~午後5時30分(木曜・金曜~午後8時  入館は閉館の30分前まで。)
ただし、1月2日(月・祝)と1月3日(火)は午前11時開館。
主催 財団法人東京都歴史文化財団、東京都江戸東京博物館、NHK、NHKプロモーション
後援 文化庁
協賛 ハウス食品株式会社
企画協力 土佐山内家宝物資料館
特別協力 大阪城天守閣
出品点数 国宝、重要文化財を含む約250件(途中、展示替あり)
観覧料金
企画展観覧券 企画展・常設展
共通観覧券
一般 1,200円(960円) 1,440円(1,160円)
大学・専門学校生 960円(760円) 1,160円 (930円)
高校生・65歳以上 600円(480円) 720円 (580円)

 

※ ( )内は前売料金及び20名以上の団体料金。いずれも消費税込み。

 

※ 次の場合は観覧料が無料です。
中学生以下(ただし常設展は別途常設展料金が必要な場合があります)。
身体障害者手帳・愛の手帳などの交付を受けている方、およびその付添者2名

 

※ 観覧券は、江戸東京博物館、チケットぴあ、ローソンチケット、イープラス、サンクス、サークルK、JR東日本の主なみどりの窓口・びゅうプラザなどで販売します。

 

※ 常設・企画展共通券(前売、当日とも)は江戸東京博物館のみで販売いたします。

巡回展 東京展終了後、下記を巡回します。
■2006年4月15日(土)~5月28日(日)/ 静岡県立美術館
■2006年7月15日(土)~8月31日(木)/ 高知県立文学館

構成とみどころ

 第1部 山内一豊とその時代

【誕生から初めての領知宛行】

山内一豊は天文14年(1545年)、尾張国守護代・織田伊勢守家の家老であったといわれる父盛豊と母法秀院との間に生まれました。父の戦死により若くして放浪の身となった一豊は、豊臣秀吉にその槍使いを見初められ、秀吉の家臣として織田信長の浅井・朝倉攻めに従軍し、近江と越前の国境刀根坂で、朝倉の将・三段崎勘右衛門と死闘を繰り広げます。強弓の士として知られた三段崎の放った矢が、一豊の左のまなじりから右の奥歯に貫通する深手を負いながらも立ち向かい組み伏せます。この武功により初めて近江唐国400石の知行が与えられました。このころ生涯の伴侶である夫人(見性院)と結婚したといわれています。
なお、山内一豊が生きた一六世紀後半から一七世紀前半は、ポルトガル人やスペイン人(南蛮人)が東南アジアの港を寄港地として日本に来航するようになり、いわゆる南蛮貿易が栄えた時期でした。かれら南蛮人がもたらしたヨーロッパ文化は、当時の人々の耳目を驚かせ、戦国武将や商人によってさまざまな技術や風俗、思想などがきそって取り入れられた時代でもありました。一豊の遺品にも南蛮文化の影響を受けたと思われるものが残っています。

 

見性院肖像画

見性院肖像画
土佐山内家宝物資料館蔵
展示期間:12月23日~1月16日

山内一豊肖像画

山内一豊肖像画
土佐山内家宝物資料館蔵
展示期間:12月23日~1月16日

 

五藤家家宝 鏃

五藤家家宝 鏃
安芸市立歴史民俗資料館蔵
展示期間:1月24日~2月5日
浅井・朝倉攻めで三段崎との死闘の際、一豊の顔に刺さったといわれる鏃。

南蛮帽

南蛮帽
土佐山内家宝物資料館蔵

 

【長浜時代から関ヶ原】

働き盛りの一豊は、長篠の合戦をはじめ賤ケ岳、小牧・長久手の合戦など数々の戦に参加しています。天正12年一豊は、織田信長の死後、その後継者としての地位を固めつつあった豊臣秀吉から、秀吉の旧領である長浜に五千石の領知を与えられます。その翌年、一旦、若狭高浜に移され、まもなくふたたび2万石の城主として長浜に戻ります。
しかしこの長浜で悲しい出来事が起こります。天正13年、一豊が在京中に長浜を襲った大地震により、一人娘の与祢姫(6歳)と家臣十数人を失います。ただ、その数年後、夫人(見性院)が城下で男の捨て子を拾い「拾」と名づけて養育したといわれています。「拾」は山内家の家督を継ぐことはなく慶長元年、京都妙心寺の南化元興の弟子となり、湘南と号します。
一豊の領知で最も領有期間が長いのが掛川時代です。この十年間には朝鮮出兵・宿老として仕えた秀次の切腹・秀吉の死などにより豊臣政権が崩壊。ついには関ヶ原において旗幟を明らかにすることを迫られるなど、次々と難しい選択を迫られました。
その関ヶ原合戦では、一豊のその後の人生を変える大きな出来事が起こりました。
徳川家康の会津征伐に従軍した一豊は、小山での軍議で自らの居城である掛川城を明け渡すことを述べ、他の大名もこれにならっています。この発言が土佐一国を拝領する大きな要因になったといわれています。
また、「笠の緒の密書」という一豊夫人の有名なエピソードが生まれるのもこの頃です。

 

御枡写(見性院所用)

御枡写(見性院所用)
土佐山内家宝物資料館蔵

※長浜時代、生活が苦しかった一豊夫婦は、まな板さえ持てない生活で、枡を裏返してまな板代わりに使用したという話が伝わっています。

関ヶ原合戦図屏風

関ヶ原合戦図屏風
関ヶ原町歴史民俗資料館蔵

 

【土佐入国】

関ヶ原合戦後の論功行賞により、一豊はついに土佐の国主となります。
しかし土佐入国は、それまで土佐を支配していた長宗我部氏の遺臣たちが、浦戸城に立てこもって抵抗する一揆が起こったこともあり、すみやかには進みませんでした。まずは弟の康豊を入国させ鎮静化を図りました。慶長6年、浦戸城に入った一豊は、直ちに領内巡見を行い、土佐郡国沢にある大高坂山に新しい城を造ることを決めます。
慶長8年には本丸が完成。入城式には城内に旗と馬印が立てられ、威嚇の空砲や鐘鼓の音が鳴り響く中を具足に身を包んだ一行が入城するという緊迫した中で挙行された入城だったようです。
入国後は、新領主に反対する一揆がいくつか起きていますが、一豊は、長宗我部氏の政策を引き継ぐことを表明して民心を鎮め、次々と新しい政策を打ち出していきます。ただ、領内支配を充実させる一方で、幕府を開いた徳川氏からの要求にも応えなければならず、さらに大坂の旧主豊臣氏との関係も維持するなど、安定しない政治状況に苦慮しながら、慶長10年9月20日、一豊は61歳の生涯を終えます。
土佐入国からわずか5年足らずでした。一豊の死後、夫人は妙心寺の単伝和尚より「見性院」の法号を受けます。見性院は伏見へ赴くことを決め、慶長11年高知を出立します。京都に屋敷を構えた見性院は、北政所(秀吉の正妻)とも親交を続け、土佐藩と豊臣氏との関係を調整する政治的な役目を果たしたことも見逃せません。元和3年、見性院は京都において61歳の生涯を閉じます。

 

見性院書状(山内忠義宛)

見性院書状(山内忠義宛)
土佐山内家宝物資料館蔵

 

 第2部 戦国時代の女性たち

第2部では、戦国時代を生き抜いた女性に焦点をあてます。その中でも悲劇を味わった女性、母としてまた乳母として戦国の世に名を残した女性、そして政治的な力を持った女性など、さまざまな視点から見た女性の姿を展示します。

 

【戦国女性の悲劇】

お市の方(1547~1583)
織田信長の妹。信長の命により浅井長政と結婚。天正元年信長の小谷城攻めによって浅井氏は滅亡、市は3人の娘とともに織田家に引き取られる。のち柴田勝家と再婚するが、秀吉との戦により勝家とともに自害。3人の娘は、秀吉に引き取られ、長女お茶々は秀吉の側室淀君、次女お初は京極高次の正室常高院、三女お江与は徳川秀忠の正室崇源院となった。

 

千姫(1597~1666)
徳川秀忠を父、浅井長政の三女お江与を母として慶長2年伏見城に生まれ、翌年わずか2歳で豊臣秀頼と婚約を結び、結婚後、大坂城に住む。大坂落城に際しては辛くも救い出され、翌年本多忠政の長男忠刻のもとに再嫁した。一男一女を産んだが長男はわずか3歳で早世、夫忠刻も寛永3年に死ぬと落飾して天樹院と号し、江戸城内の竹橋御殿に住んだ。

 

【母の力、乳母の力】

大政所(1517~1592)
豊臣秀吉の生母。その前半生は不明な点が多いが、尾張国愛知郡御器所村に生まれ、同郡中中村の農民弥右衛門と結婚し、秀吉ら4人の子をもうけ、夫と死別後、同村の筑阿弥と再婚したと推定される。後半生は秀吉のもとで過ごし天正20年病没76歳。

 

伝通院(1528~1602)
徳川家康の生母で、お大の方と称した。水野忠政の娘で天文10年、松平広忠と結婚し翌11年家康を生む。しかし松平・水野氏がそれぞれ属した今川・織田両氏の対立激化のため離縁させられ、再婚した久松定勝没後の天正16年以降は伝通院と号した。慶長7年75歳にて没した。

 

伝通院肖像画

伝通院肖像画
日光東照宮蔵
※展示期間に制限があります。

 

【戦国女性の政治力】

高台院(1549~1624)
豊臣秀吉の正妻。永禄4年、13歳のときに結婚と伝えられ、以来37年連れ添った。その間秀吉は織田家のなかで出世を続けやがて天下人となるが、北政所自身、下級武士の出身ながら従一位という最高位まで昇進した。子どもには恵まれず、秀吉没後、大坂城を出て京都に移住。

 

芳春院(1547~1617)
加賀百万石の祖前田利家の正室。名はまつ。秀吉夫妻とは懇意にしており、両夫婦の結婚では互いに仲人をつとめたとも伝えられる。気丈な性格を物語るエピソードが残され、夫利家没後、嫡男 利長が徳川家康から謀反の嫌疑をかけられた際には、自ら進んで江戸に下って人質となり、前田家を救った。元和3年死去。

 

芳春院自筆書状

芳春院自筆書状
前田土佐守家資料館蔵

 

 第3部 山内家に伝えられた美と歴史

平成16年7月、旧土佐藩山内家から高知県へ、約3万6千点の歴史資料・美術工芸品が寄贈されました。これにより、従前の移管分とあわせて、山内家伝来の6万6千点を超える資料が高知県へ移管されたことになります。
これらの資料の中から、国宝 古今和歌集高野切本をはじめ、山内家に伝わる名宝の数々をご紹介します。

 

古今和歌集高野切本 巻第二十

古今和歌集高野切本 巻第二十
土佐山内家宝物資料館蔵
展示期間:12月23日~1月4日

兎耳形兜

兎耳形兜
土佐山内家宝物資料館蔵

 

乗物

乗物
土佐山内家宝物資料館蔵

関連事業

特別展「山内一豊とその妻」 新春スペシャルトークショー

日 時 2006年1月2日(月・祝) <終了しました>
開場/午後1時30分 開演/午後2時 終演予定/午後4時
会 場 江戸東京博物館ホール
〒130-0015 東京都墨田区横網1-4-1
内 容 【第1部】午後2時~3時
「講演会」
講師:小和田 哲男(大河ドラマ『功名が辻』時代考証・静岡大学教授)
【第2部】午後3時10分~午後3時40分
「トークショー」
ゲスト: 高山 善廣(大河ドラマ『功名が辻』蜂須賀 小六 役)
小和田哲男(大河ドラマ『功名が辻』時代考証・静岡大学教授)
観覧申込

官製往復はがき(1枚で2名様まで)に下記必要事項をご記入の上、お送りください。
往信用裏面にご自分の・郵便番号・住所・名前・電話番号を明記してください。
返信用表面にもご自分の・郵便番号・住所・名前を明記してください。
*応募者多数の場合は抽選で、入場整理券(1枚2名入場可)を発送いたします。
*展覧会をご覧いただくには別途入場料が必要です。

■あて先■
〒150-0047 東京都渋谷区神山町5-5
NHKプロモーション 「山内一豊とその妻トークショー」係
<締め切り>12月9日(金)必着

問い合わせ NHKプロモーション
TEL:03-5790-6424(月~金/午前10時~午後6時)

 

☆来場者全員にお年玉(展覧会特製グッズなど)をプレゼント!

関連リリース

大河ドラマ 『功名が辻』

期間 2006年1月8日(日)、放送スタート <終了しました>
時間 総合・デジタル総合:午後8時~
デジタル衛星ハイビジョン:午後6時~
衛星第2:午後10時~
出演 【千代】仲間由紀恵
【山内一豊】上川隆也
「生き延びろ!妻の知恵と夫の愛で 」
それは競争社会に振り回されながらも、新たな生をつかみとろうと格闘するあなた自身の物語でもある。
愚直な槍働き一筋、真心一筋の不器用ゆえに、さしたる取り柄も功名もないと思われていた男が、土佐一国24万石の大名となった。山内一豊である。彼が、信長、秀吉、家康と主を代えながらも戦国を生き抜き、大功を成した陰に、妻・千代の卓抜した政治感覚と夫を信じぬく強い愛があったといわれている。それは、類まれなる「励ます力」でもあった。
信長、秀吉、家康という天才たちが引きずりまわした戦国の生死をかけた生存競争。その中で、中堅サラリーマンにも見立てられる一豊という夫を、妻の千代は、どのように励まし、生き抜く知恵と勇気を与えていったのか。
司馬遼太郎が女性を主人公にとりあげた希少な小説「功名が辻」を原作に、男女の機微に卓越した大石静が脚本化し、千代=仲間由紀恵と一豊=上川隆也が走り抜ける。
原作 司馬遼太郎『功名が辻』
脚本 大石 静